頑張れなくても応援ソングを聞いていいだろ!パトラ!
頑張りたくない
もしくは頑張れない
はたまた生まれてから頑張った経験がないから出来ないと思っている
Vtuberの曲は僕達の人生を応援してくれない(1) ーー月ノ美兎、星街すいせい、花譜のアルバムをレビューして得た音楽考察という記事を携帯に勧められて読んだ
サジェストにより出てきて流し読みしただけだからなんとも言い難いが時代性とターゲットの問題でしかないのでは
https://x.com/slnql/status/1921805755310580028
応援とは独善的で過干渉である
VTuberの起点は社会的な弱者に向いている
彼ら自身も社会に受容されなかった者の集まりという側面があった
時代として以前より人と人との関わりに一定の距離が保たれている
https://x.com/slnql/status/1921806986678517885
という感想のツイートをした
また近い意見だなと思いリツイートしたものも
インターネットを生きる我々はこのクソな世界でがんばって生きたいなんて1ミリも思っていない。
https://x.com/2ga3/status/1921909007372972250
この筆者のnoteを一覧でみてみると数字が取れそうなものばかりを主題に選び人からみられやすいタイトルをつけている
そういう姿勢や文章の癖やインターネットでの立ち回りなど様々なことが気持ち悪く感じた
そういうわけでこれを機に避けようと思ったのだが最近のTLでは喜多崎みちるがこれを随分と重く捉えていた
彼女の動画は好きだったがこれ以前にも少し相容れないところがあるなと思っていたためそんなものだろうとスクロールした
眠れずに朝日を浴びた
ぼーっとEテレをみていた
水泳スクールをサボってみるプリキュア
学校を休んでみるブランチ
一睡も出来ずにみる0655
背徳感を紛らわせるときにいつもテレビは傍にいた
ピタゴラスイッチをつくる人になりたかった
デザインあの発想に憧れて乃木坂に行った
すイエんサーで大科学実験で自然科学系に興味を持った
眠気を覚ましながら0655をみてそれから1チャンネルのニュースに変えて朝食を採る
そういう日々は長くは続かなくて数ヶ月で不登校になった
どこにも出ずに家にいると太陽の出る時間がずれる
明け方に太陽が沈むようになった頃に日までテレビをつけると0655が流れていた
未だに葛葉がtoi toi toiを口ずさんでいたことを思い出す
いつぞやのツイキャスが顕著だが普段の配信からも容易にわかるように彼はとにかく優しくまた擦れていない
いや擦れてはいるのだがその奥にいまだ残る純粋さが在る
月ノが勇気を通してインターネットのドライさはそこ固有のものであると気がついたような経験を私は彼を通して得たように思う
そんな彼がtoi toi toiを口ずさんだときに(彼のやたらに豊富な引き出しの1つでしかないと理解しながらも(ド本社からの弄りに対しても歌い続けていたあたり特別なものだと信じているが))見えにくかった彼の過去や優しさの理由がのぞき見えた気がした
デーモン小暮と同じく同じく包み込むように優しく歌う彼に囚われて数年になる
私は応援が嫌い
勝ち負けに重点がおかれる競争に勝ちを見いだせないし他人からの作用で自身の努力量が変わることは自分を軽視しているように思うしまた何においても頑張る必要を感じられない
同様の理由から応援歌も好きではない
だからこそVTuberが応援ソングを歌わないのは好ましかった
低みにいることを否定しない心地よさがあった
そんな中であのようなnoteが流れてきて心をかき乱され少し苛立っていたが思えば葛葉が自然に歌ったtoi toi toiもまた応援の側面をもっていた
あまり熱心に歌詞を聞き取る方ではないが気になってしまったからtoi toi toiを歌詞を見つつ聴いた
どうやら私は応援というものをやたらに狭く定義して苦しんでいたらしい
(哲学に疎いため誤っている点も多くあるが)ウィトゲンシュタインのいう「幸福たれ」に感じる諦念と需要そして願いがtoi toi toiにはあった
毛嫌いしていただけで応援ソングというのはそういうものも大いにあるのかもしれない
VTuberに応援ソングを歌わないでほしいという(言語化されていない)押し付けを止める機会をくれたあのnoteには感謝すべきかもしれない
また未だに「頑張り」の定義を社会に投げている私に自省の機会もくれた
とはいえ彼が書く文章を好むことはないだろう
願いを祈りを応援とすることで有耶無耶に良い話のように片付けるのも卑怯かもしれないが私はもう応援をそういう抽象的なものとするのがよいだろうと思ってしまったから仕方がない